【よど号ハイジャック事件】概要と背景、亡命の赤軍9名のその後などを解説

この恵まれた環境と支援者の協力によって、彼らは日本の人々とSNSなどを通じてコンタクトを取っています。

よど号ハイジャック事件犯がSNSで情報・愛国心を発信?

よど号ハイジャック事件犯達は、2014年に支援者の協力で「何でもアリ!? よど号のyobo-yodo」というTwitterのアカウントを開設しました。

彼らは直接Twitterにアクセスはできませんが、支援者とのメールのやり取りを介して、メッセージの発信を続けています。

Twitterでは、魚本公博が皇室への敬意を表したり、赤木志郎が「愛国思想に目覚めた」と発言したりしています。彼らも70代になって、故郷である日本への思いがつのっているのかもしれません。

サイトも開設

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よど号ハイジャック事件の犯達はSNSだけでは物足りなくなったのか、201711月末に自分たちのウェブサイトを開きました。

サイトでは、国際情勢や日本の政治に対する意見と共に、日々の様子を発信しています。

その内容を見ると、日々の様子はあまりにも穏やかです。今日の政治に対する意見も、SNSなどを見慣れていると特に過激とは感じません。彼らにとって武装闘争の時代は、もう過ぎ去ったのでしょう。

よど号ハイジャック事件犯に対する日本の姿勢とは

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Twitterのアカウントを開設したよど号ハイジャック事件犯達ですが、彼らへの日本人からの返信は「ヘイト」の連続だったと小西隆裕は語っています。

実際、彼らが心の底では希望している帰国問題に関しては、今でも厳しい反応があるようです。

フォロワー数約4,000名

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しかしながら20197月現在、彼らのツイッターアカウントのフォロワーは約4,000名います。

あれだけの大事件を起こしたグループとやり取りできるアカウントとしては多すぎるとも少なすぎるとも感じます。

もしかしたら、よど号ハイジャック事件の現在は、知る人ぞ知るトピックになりつつあるのかもしれません。

よど号ハイジャック事件の被害者について

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よど号ハイジャック事件に関係したのは、犯人の若者達だけではありません。この事件に巻き込まれて大変な経験をすることになった被害者も、立派な関係者です。

被害者としてあげるべきなのは、まず人質となった乗客、そして次によど号に乗っていた乗務員でしょう。

よど号ハイジャック事件犯から解放された人質となった乗客

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乗客の中には医者が多くいました。事件の日に福岡で、日本内科学会総会が行われる予定だったのです。その中には虎ノ門病院の沖中重雄や聖路加病院の日野原重明といった重鎮(じゅうちん)と呼ばれる医者もいました。

なかでも日野原氏にとって、このよど号ハイジャック事件は転機となる事件でした。彼はこの事件をきっかけに今までの名声を追う人生をやめて、これからは人々を救うための医業に徹しようと決心したのです。

その後日野原氏と彼が院長を務める聖路加病院は、1995年の地下鉄サリン事件で、大きな働きをすることになります。

よど号ハイジャック事件の阻止を努めた運航乗務員

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よど号ハイジャック事件の被害にあったのは、乗客だけではありません。パイロット2人と航空機関士1人、そしてキャビンアテンダント4人も同じように被害者です。

犯人達の一部は操縦室に侵入して相原利夫航空機関士を拘束しました。

そして石田真二機長と江崎悌一副操縦士を脅して、平壌に行くように命令しました。この命令に対して3人は最初から最後まで落ちついて対応しました。

パイロット達の手柄(1)

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副操縦士は、平壌まで飛ぶことが可能なだけの予備燃料を積んでいたにもかかわらず、「この便は国内線なので十分な燃料を積んでいない」と犯人に嘘の説明をして、国外への飛行を止めようとしました。

また副操縦士は、韓国の金浦国際空港では操舵室の窓から犯人の数と場所や武器などを書いた紙コップをこっそりと落とし、外部に情報を伝えるのに成功しました。

パイロット達の手柄(2)

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一方機長は、よど号がまだ板付に止まっている間に、冷静な説得で女性・子供・病気の者を自由にさせることに成功しました。

さらに機長は、北朝鮮の小さな飛行場の滑走路で難しい夜間着陸をすることになったとき、第二次世界大戦に従軍していたときの経験を生かして無事にやり遂げました。

よど号ハイジャック事件の被害者の現在

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よど号ハイジャック事件に巻き込まれた人々人は、その後どのような人生を歩むことになったのでしょうか?

ここでは人質のひとりであった医師の日野原重明氏、冷静沈着な態度を貫いた3名の運行乗務員について述べることにします。

そして乗客に代わって人質になることを申し出た山村新治郎運輸政務次官のその後についても紹介します。

よど号ハイジャック事件の人質乗客の中にいた故日野原重明氏

日野原氏は、よど号ハイジャック事件事件の犯人グループが機内で貸してくれた「カラマーゾフの兄弟」に強烈な印象を受けました。本の冒頭の部分に聖書のヨハネ福音書の一節があったのです。

クリスチャンである彼は、この一節を読んで心が落ち着き、ひょっとしたら起こるかもしれない自分の死(強行突入があった場合)を考えました。

金浦国際空港で自由になって、タラップを降り地面を再び踏みしめたとき、彼は「生きている」実感を改めて強く感じました。そして「この命は与えられた命なのだ」と実感したのです。

地下鉄サリン事件で大きな働き

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日野原氏はこの経験をきっかけに、これからは医師としての名声のためではなく、純粋に人を救うために活動しようと決心しました。

彼が聖路加国際病院の院長を務めていた1995年3月、地下鉄サリン事件が起こりました。このとき彼は院長として病院全体を使って被害者を受け入れる決意をし、大勢の患者の治療に活躍しました。

3年前、彼は大災害を想定して、聖路加の廊下・待合室に酸素の配管を準備し、広いロビーや礼拝堂を設けて多数の患者を受け入れることができるよう、病院を改装していたのです。

やがてターミナル・ケアの道へ

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やがて彼は残された時間を使ってターミナル・ケア(終末期医療)の問題に取り組み、 2017718日に105歳で大往生を遂げるまで、現役の医師として働き続けました。

よど号ハイジャック事件の人質の運航乗務員

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3名の運行乗務員は、帰国後英雄として人々から迎えられました。しかしその後の人生航路は機長と他のふたりでは、大きく異なるものになってしまいます。

江崎悌一副操縦士(後に機長に昇進)と相原利夫航空機関士のふたりはその後も定年になるまで、日本航空で無事に勤務を続けました。

思いがけない行く末

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しかし石田機長は事件後にプライベートなトラブルをマスコミにスクープされ、それをきっかけに日本航空を退職します。

その後はさまざまな仕事を転々とし、最後は夜間駐車場の警備員として働き、20068月に生涯を終えました。

よど号ハイジャック事件で人質となった山村新治郎運輸政務次官

国交のない北朝鮮にひとりで乗り込むことになった山村新治郎運輸政務次官は、この英雄的な行動で世間にも名前が広く知れ渡ります。

そのせいか、彼は後に農林水産大臣や運輸大臣も経験し、順調に政治家としてのキャリアを築き上げることができました。

悲惨な最期

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しかし、そのキャリアは突然終わりを迎えます。1992412日、彼は精神疾患をわずらう次女に自宅で出刃包丁でめった刺しにされて亡くなったのです。

この悲惨な事件は、皮肉なことに彼が自民党訪朝団団長として北朝鮮を訪問する前日に起こりました。

次女は責任能力なしという理由で罪に問われなかったのですが、自分の父親を殺してしまったことに苦しんで、事件の4年後に自死をとげてしまいます。

よど号ハイジャック事件の目的は何だったのか?

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9人の若者達は、どうして「よど号ハイジャック事件」という大きな事件を起こしてまで、北朝鮮に渡る必要があったのでしょうか?

ここでは、彼らがよど号ハイジャック事件を起こした理由について、考えます。

よど号ハイジャック事件の起きた背景

よど号ハイジャック事件の起きた背景には、後述する共産主義同盟赤軍派の思想がありました。

また、オルグ(活動家)を彼らが海外に派遣しようとしても、主なメンバーはすでに公安警察に目をつけられていて、合法的な方法では日本を出国することができない、という内部の事情もありました。

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