【よど号ハイジャック事件】概要と背景、亡命の赤軍9名のその後などを解説

そして「海外の小国」にメンバーを送り込む手段としてハイジャックを考えていたのです。

ところが1970年3月15日に、塩見孝也赤軍派議長が逮捕されたため、計画を早めてハイジャック計画を実行することに決めました。

よど号ハイジャック事件の犯人はなぜ北朝鮮を選んだのか

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​よど号ハイジャック事件の犯人達は、目的地としてなぜ北朝鮮を選んだのでしょうか?

彼らは北朝鮮の独特の社会主義体制に共感して、この国を行き先と決めたわけではありません。北朝鮮は「もっとも近くにある日本帝国主義と敵対関係にある小国」だったからです。

よど号ハイジャック事件の甘くない現実

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彼らは北朝鮮を、彼らが考える共産主義革命の軍事基地に変えるつもりで、北朝鮮に行きました。

しかし現実は甘くなかったようです。彼らは北朝鮮でチェチェ思想(北朝鮮独特の共産主義)の徹底した洗脳教育を受けさせられたそうです。

よど号ハイジャック事件を起こした共産主義者同盟赤軍派とは

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よど号ハイジャック事件を起こしたのは、共産主義同盟赤軍派という集団です。

共産主義同盟赤軍派は、いったいどのような目的で結成されたのでしょうか?

この共産主義同盟赤軍派は後に先鋭化して、連合赤軍や日本赤軍に変わり、各地で大事件を起こすことになります。

よど号ハイジャック事件を起こした共産主義者同盟赤軍派とは?

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共産主義者赤軍派は1969年8月に、共産主義者同盟(ブント)から最左翼が分離して結成した集団です。

彼らは小さな蜂起(前段階蜂起)を繰り返し、(日本を含む)世界の共産主義革命へとつなげて行こうと考えていました。

そのためには世界のあちらこちらに小さな拠点で武装訓練を受ける必要がある(国際根拠地論)というように彼らの考えは発展し、よど号ハイジャック事件へとつながって行きました。

よど号ハイジャック事件の共謀犯も逮捕

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よど号ハイジャック事件には加わらなかっけれど、犯人たちの理論的な支柱となったり、犯行の準備を裏で手伝った赤軍派のメンバーも何人かいました。

彼らもよど号ハイジャック事件の後、この事件に共謀したため、逮捕・起訴されました。

裁判を受けたのは塩見孝也・前田祐一・高原浩之・川島宏・上原敦男の5人で、宣告された刑はそれぞれ懲役18年、懲役8年、懲役10年、懲役4年、懲役5年6か月でした。

よど号ハイジャック事件の共産主義者同盟赤軍派のその他の事件

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共産主義者同盟赤軍派は、最初から海外に目を向けてよど号ハイジャック事件を起こしたのではありません。

彼らが起こしたもうひとつの有名な事件として、1969年11月5日に起こった「大菩薩峠事件」を紹介します。

これは最初から最後まで、国内で完結した事件でした。そのため彼らの一部は、ここでの失敗をきっかけに海外の拠点づくり(国際拠点地論)に注目するようになります。

大菩薩峠事件

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1969年11月、共産主義同盟赤軍派は武装した部隊が首相官邸と警察庁を襲撃する「11月闘争」を起こそうと計画していました。人質をとって牢屋にいる仲間を奪い返すつもりだったのです。

その武装訓練を山梨県の大菩薩峠周辺で行うため、近くの山荘に多くのメンバーが潜伏していました。

しかし計画は公安警察に筒抜けになっていて、11月5日に機動隊が突入、その場にいた53名が逮捕され、刃物や火炎瓶等の武器も押収されたという事件です。

連合赤軍と日本赤軍と政治テロ

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政治テロに関しては、ここで取り上げた「よど号ハイジャック事件」をはじめ、その前段階といえる「大菩薩峠事件」がまずあげられます。

そして共産主義同盟赤軍派がさらに先鋭化した連合赤軍、活動場所を海外に求めた日本赤軍が起こしたさまざまなテロ事件も忘れることはできません。

浅間山荘事件

1972年2月19日、連合赤軍のメンバー5名が、軽井沢にある河合楽器の保養所である「浅間山荘」に管理人の妻を人質に219時間(10日と3時間)立てこもった事件です。

事件は結局、2月28日に機動隊と長野県警の合同部隊が山荘へ強行突入し、管理人の妻を無事解放して犯人5名を全員逮捕して終わりました。

しかしその途中で死者3名重軽傷者27名を出すことになります。より詳しい内容は、次の記事を参照して下さい。

山岳ベースにおけるリンチ殺人

浅間山荘が起こった当時、連合赤軍は警察に追われたため、中部山岳地帯の山小屋(山岳ベース)を転々としながら、軍事訓練や次のテロ活動の計画を立てていました。

群馬県の榛名ベースには、「新党」を作るためのべ29名が集まりました。しかしこの榛名ベースで規律違反者に対する「総括」(メンバー相互の批判や自己批判)が始まり、次第にエスカレートして行きました。

最初は決められた作業から外される程度であった「総括」が、次第に暴力的なものになり、ささいな理由で総括されて死者が続出するようになっていったのです。

残酷な「総括」

亡くなった人たちの死因は殴られたことによる内臓破裂や氷点下の屋外に長時間放っておかれたことによる凍死、食べ物を与えられなかったことによる衰弱死などです。

一部のメンバーには、「死刑」が宣告されて、アイスピックやナイフでめった刺しにされた後で絞め殺されました。

1971年12月から2か月ほどの間に12名のメンバーが殺されました。恋人や兄弟同士、妊娠した女性も含まれていました。亡くなった人の遺体は衣類を全部はがされて、裸で地中に埋められました。

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