人類史上最強の核兵器・ツァーリ・ボンバ!日本に落ちた時の被害範囲は!?

開発者たちの苦悩

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開発当時、世界中から優秀な天才科学者たちが核兵器研究のために集められました。核兵器の恐ろしい威力を一番理解していたはずの開発者たち。彼らはなぜ地球を破滅に追い込むかもしれない核兵器を製造していったのでしょう。

アメリカでの研究生活

開発者の多くはユダヤ人でした。もしもドイツが先に開発を成功させた場合、世界がヒトラーに支配されてしまうと恐れたのです。それを回避するため彼らは自らアメリカの極秘研究施設「ロスアラモス研究所」に入り、閉じ込められた研究生活を選びました。しかし、核爆弾完成前にドイツが降伏してしまいます。

広島・長崎に原爆が落とされる

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ドイツが降伏したため研究者たちもう原子爆弾は不要になったと考えました。ですがアメリカ軍は次は日本を降伏させようと、広島と長崎に原爆を投下します。その悲惨な被爆状況を知った科学者たちは大きな衝撃を受け、後にその多くは核廃絶運動に参加していきます。

開発ふたたび

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終戦と同時に科学者のほとんどは研究所を離れました。広島・長崎の罪悪感に苦しんでいたのです。しかし、ソ連が核爆弾を開発したことで、彼らは再び悪夢へと連れ戻されます。アメリカ政府はソ連のもつことになるであろう新型核兵器である水爆の開発を求めたのです。

強すぎるので威力半減にしたって本当!?

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ツァーリ・ボンバは100メガトンの威力を実現する水爆でした。その威力は、広大な国土を持つソ連であっても領内の広域に渡って被害が及ぶであろうものでした。影響を懸念したソ連当局は、その威力を半分に抑えて実験することにしました。

開発者のロシア(旧ソ連)が恐れた!?

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100メガトン級の爆発ともなれば、ソ連領内の人口密集地へ死の灰と呼ばれる放射性降下物が多量に降る事が予想されたました。そのため実験では第三段階のタンパーが鉛に差し替えられ、出力は半分の50メガトンに抑えられました。

ソ連最高指導者だったフルシチョフは「モスクワのガラスがぜんぶ割れないように出力を減らした」とジョークを飛ばしたといいますが、それはジョークではなく本当に被害を恐れていたのです。

唯一の大気圏内核実験!

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ソ連は万を辞してツァーリ・ボンバの公開実験を行います。党大会直前に日時を設定し、その実験場所や威力をあらかじめ公開した上で行うことで、国力を示そうとしたのです。当時の世界情勢は、ベルリンの壁建設、キューバ危機などでかなり緊迫した状況でした。そんな中での公開実験により世界中が打ち震えました。

1961年10月30日の出来事…

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人類史上最大の威力を持つツァーリ・ボンバですが、1961年10月30日、旧ソ連領のノヴァヤ・ゼムリャ島にて大気圏内での実験が行われました。半径58キロメートルの範囲に渡り、致命的な火傷を負う強烈な熱線が届きました。凄まじい威力だったため、爆心地周辺は未だにその影響が残っています。

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