【八甲田山雪中行軍遭難事件】歴史上稀に見る遭難事件の概要と原因

現代のようなネットで情報収集のできない時代ではありましたが、知識の共有をすべきであり、独断ではなくチームとして意見を出し合うことも重要だったのではないでしょうか。

八甲田山雪中行軍遭難事件原因③指揮系統の混乱によるパニック

Free-Photos / Pixabay

隊の総合責任者であったであろう人物が混雑し、解散宣言をしてしまえば率いてきた兵たちは頭が真っ白となってしまったことでしょう。実際に異常行動を起こし多くの命が亡くなっています。

実際に雪山を想定した行事をしたことがなく、経験に乏しかったのです。引率しなければならない存在が知識不足ほど路頭に迷うことはないでしょう。

artbejo / Pixabay

バラバラで行動をしてしまったことで、遭わなくてもよかった被害もあったことでしょう。一同がまとまって一丸となっていたら、もっと多くの生還者がいたのかもしれませんし、無念さは計り知ることができません。

八甲田山雪中行軍遭難事件原因④指揮官の認識不足

前日に宴会を開き、楽しんでいたとされます。とても翌日に重要で過酷な試練が迫っているようには思えない姿ではないでしょうか。当然兵たちもトップが能天気な態度だったため、重さを感じ取っていなかったようでした。

縦社会の軍隊で指揮官の意見は絶対です。リーダーとして責任感を持ち、情報を集め210人の上に立つトップとしての役割をしてほしかったとさえ思ってしまうのです。

八甲田山雪中行軍遭難事件の数少ない生存者のその後

Kanenori / Pixabay

無事に帰ってこれた人々についてみてきましょう。多くの仲間が絶えていく中での生還は、彼らの生命力の強さがうかがえるとともに、今世にこの騒動を伝える一人者として大切な人物だったことでしょう。

世間は深い悲しみと自然の怖さを改めて実感したのです。その後に迫ります。

八甲田山雪中行軍遭難事件救出17名中、6名は死亡

JillWellington / Pixabay

後に証言していますが、生と死を分けたラインは凍傷だったようです。多くの生存者は足袋と軍手の予備を持っており濡れたら取り替えておりました。

一番元気だった倉石は、長靴を履いていたため凍傷を防ぐことができていたとされます。以前に東京へ出向いた際に購入したものだったようで、何気なく雪だと濡れると思い考えついたことが幸運でした。

skeeze / Pixabay

一方、死に至った多くは替えを持っておらず放置をしたことで次第に凍ってしまい、息を引き取ったとされます。訓練の前日に皆が集められ口頭で持ち物を伝えられたとされますが、本当に聞き入っていた人物がどれほどいたのでしょうか?

注意事項として伝えたと申告書には残っているといわれていますが、事の重大さの認識のズレなのか聞いていなかったのか定かではありません。

凍傷とは?

KELLEPICS / Pixabay

気温が低い場所に長時間滞在すると、血流が悪くなり組織が凍っていく症状を指します。初めは心臓から遠い部位から症状が出始めるため、指先が発端となる場合が多いようです。

初めは紫色に変色をし、感覚が奪われていきます。細胞の働きをストップしているので新陳代謝が行われず皮膚は腐敗に進行していきます。

Free-Photos / Pixabay

寒冷地域へ出向く際には、防寒をして血行が悪くならないような、締め付けのない服装が適しています。

八甲田山雪中行軍遭難事件の生還者全員が凍傷の為手足の切断

sasint / Pixabay

命は助かったものの、残酷な運命を辿ってしまうのです。助かった人物らは多少なりとも知識があり靴を革靴に変えていたり、凍傷予防のために銃についていた皮を剥がして足指に巻き付けたり、毛皮を持ちていたりと各自で工夫をしていたようです。

多くが段階の高い者が生存しています。これには武器や道具を持たずに参加できたことが体力の消耗を少しでも減らせたためと言われています。

八甲田山雪中行軍遭難事件生還の功労者、後藤伍長は銅像が建立

殺生環境の中で、誰もが生きて帰ることを強く願いましたがほとんどが力尽きています。神成大尉もその一人で、叶わなかった魂を部下でもあった後藤に託しました。

彼も意識が薄れていく中で何としても上官の意思を伝えなくては、自分が息絶えてしまえば上官の遺言も無になってしまうというそれだけが、命綱だったことでしょう。

Santa3 / Pixabay

お酒が好きな彼は、唯一水筒にお酒を入れていたといわれています。多くの水分が凍ってしまい飲めない中、彼は少しづつお酒を体内に入れて冷えないようにしていたとされます。

これが温まって生命を守ってくれたのかもしれません。第一発見者だったことが他の兵の発見にも繋がり、生を救ったと功績とされ銅像が1907年に設立されたのです。

当の本人も見ることができたのですが、照れ屋の性格から直視できなかったと残されています。

八甲田山雪中行軍遭難事件とは逆に、全員生還を果たした弘前隊

Turkkinen / Pixabay

同じ極寒の時期に、雪山での演習を行い全員が無事で元気に戻ってこられたメンバーがいました。一体なにが明暗を分けたのでしょうか?それぞれの異なる点などを比べながら考察します。

八甲田山雪中行軍遭難事件と同時期に雪中行軍を行った部隊

DariuszSankowski / Pixabay

大きな違いはしっかりとした計画性です。3年もの長い時間をかけて行ってきた訓練の集大成でした。主な目的は、寒空の中で過ごすにあたっての服装と練り歩く環境の確認チェックのためでした。

零下に順番に慣れていくため、約8日間ほど山付近で生息をし、徐々に体を慣らしていきました。同じシーズンに行っても誰も消えることなく全員が無事だったのです。

Free-Photos / Pixabay

これには運が良かったわけでもなく、彼らのしっかりとした知識の結果なのです。

八甲田山雪中行軍遭難事件とは別ルートを通った

Noel_Bauza / Pixabay

約220㎞もの長距離を11日かけています。弘前からスタートをして案内人の指示に従って常に動きました。自然相手ですから計画を立てていても、天候の悪化はあり得ることです。

案の定、突如激しい風と雪に襲われますが、ガイドからのアドバイスを受けながら休息をとるなどしながら様子を見て行動をしました。

八甲田山雪中行軍遭難事件と命運を分けたのは念入りな事前の準備

stevepb / Pixabay

足先が壊死にならないよう靴下を3枚も履き、その上から血行をよくするため唐辛子をかけ、油を浸した紙で包み防寒したようです。また手荷物も極限まで減らしています。

雪山での演習で一番恐ろしいのは、冷えによる皮膚損傷だと知っていました。そのため汗をかかないことと、手を常に擦っての予防を徹底したといいます。10分おきに休憩をとりながら前へ進んでいきました。

Kanenori / Pixabay

体力を奪われる現場では、食べることで体を温め体力も補充していくことが必要と認識しており、地点の宿泊の場所に食料や備品を届けさせるように手配をとっています。

また自分たちで行うには知識不足なため、民間に依頼をして休息したり寝る場所を決めたようです。的確な連携プレーによって、成し遂げることができたわけですが、前もってのしっかりとした準備が功を奏しているのが明らかです。

ArmyAmber / Pixabay

指揮官が約2年ほど北国を経験しており、自然の形態などを熟知していたことから、自分たちでできることと依頼したほうがよいことを把握しています。

メンバーもほとんど北国出身者を集めたことも優位な選抜だったと思われます。だからこそ、的確な指示を部下たちに告げることができ、兵たちも順応な対応ができたのでしょう。

八甲田山雪中行軍遭難事件との違いは「意見の尊重」

明暗を分けたとされる違う部分は、傲慢主義ではなく一つの目的に向かって目指す盟友として協力をしていることです。隊だけでなく、ガイドに対しても意見を受け入れ、その人物の見解を重んじています。

指揮官は隊のトップであるため権威はありますが、うまく共存していき、いざというときにチームをまとめています。逆に青森隊では、いざというときにバラバラになってしまいました。

八甲田山雪中行軍遭難事件の弘前隊は青森隊に遭遇していた?

composita / Pixabay

公には弘前隊が青森隊の遭難を知ったのは目的地に着いてからとされています。実際には事故の途中で凍死者や武器などを確認しています。しかし、その事実は隠蔽されてしまったのです。

一体なぜでしょうか?闇に包まれていた事実に迫っていきましょう。

八甲田山雪中行軍遭難事件で弘前隊と青森隊の遭遇の記録

6689062 / Pixabay

軍事関係の書類や隊員のダイアリーに記されていた記述によりますと、道中でお互いがばったり会っています。弘前隊の一人が動かなくなった兵の顔を認識するため、帽子をはずそうとします。

厳たる環境だったため凍っており、顔の皮膚もめくれてしまったと残されているのです。その後も、目的地へ到着した兵らが、途中で青森メンバーに会ったことを報告していると記載された資料も発見されているのです。

NEXT 八甲田山雪中行軍遭難事件で弘前隊と青森隊の遭遇が隠蔽された理由